利府の歴史探訪
史 跡
自然地形を利用した中世の典型的な山城です。源頼朝によって陸奥国留守職に任命された伊沢家景の子孫、留守氏の居城です。規模が大きく、残存状態が良好なことから昭和57年に「国指定史跡」に登録されています。本丸のあった平場の他、堀切、土橋、土塁と呼ばれる施設も確認されています。 国指定史跡岩切城跡
岩切城跡は、仙台市岩切から利府町神谷沢にまたがり、南北約400m、東西約600mの険しい自然地形を利用した山城(館跡)です。東は陸奥国府多賀城、太平洋を一望でき、西と南には仙台平野が広がっています。北西から南東に延びる標高106mの高森山の尾根を削ったり、土砂を盛ったりして城を築いています。また、ところどころには、堀切(尾根を切断して、敵の侵入を防ぐ施設。からぼり。)、土橋(堀切にかけた土はし。有事の際には橋をこわすことが容易。)、土塁(土を盛り壁を造って、守りの施設としている。)、舛形(約20畳分の広さがあり、ここに人を立たせて大まかな人数を計算するのに使った。また、敵が侵入した場合、袋小路になっており、守りの施設として使った。)などいろいろな施設があります。また、中心部の平場は一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸とよばれ豪族が、掘立柱建物という家を構えているところです。その他の平場には兵士の掘立柱建物があったのでしょう。もちろん、倉庫、井戸などもあったはずです。
 昭和10年(1935)に一ノ丸、三ノ丸跡の一部が発掘調査されており、掘立柱建物跡が多数見つかっています。
 この城跡の歴史は、利府町ゆかりの留守氏と大きく結びついています。
 文治6年(1190)に、のちに鎌倉幕府を開いた源頼朝によって陸奥国留守職に任命された伊沢家景の子孫、留守氏の居城です。古文書に初めてこの地名がでてくるのは、観応2年(1351)です。
 留守氏は、南北朝時代に北朝側(足利尊氏)でしたが、奥州探題畠山氏、吉良氏の北朝側同志の対立、紛争にまきこまれました。留守氏は畠山氏に味方して、この城にたてこもり、戦いましたが敗れ全滅してしまいました。世にいう「岩切城の合戦」です。この戦いのようすはいろいろな古文書に記録されていますので、利府町誌を参考にしてください。
 その後、留守氏は再興されます。その勢力は非常に弱かったようですが、徐々に伊達氏の力をかりて勢力をもり返します。戦国時代の伊達政宗の時に、留守政景が大活躍することは有名です。元亀元年(1570)、政景が利府城に移るまで留守氏の本城とされていました。
 昭和57年(1982)、文部省によって、その規模が大きいことや施設が中世的なことなど東北地方における典型的な山城であり、歴史的に重要であるとして国指定史跡に指定されました。
道案寺横穴古墳群の一つで、横穴壁面に削られた「磨崖仏」をさします。「岩切のお薬師」・「七ヶ浜湊の薬師」と共に「三薬師」とよばれ、今から約1200年前に慈覚大師が一夜のうちに造ったといわれています。 菅谷の穴薬師(菅谷の薬師如来)
菅谷道安寺の南にあり、道安寺横穴古墳群のひとつにあたります。1基の横穴古墳を改良し、横穴壁面に削られた「磨崖仏」をさします。現在は、その前面にお堂がつくられ安置される格好になっています。
 三薬師のひとつで、岩切東光寺の磨崖仏は「宵のお薬師」、菅谷のは「夜中のお薬師」、七ヶ浜湊のは「暁のお薬師」といわれ、いずれも今から約1200年前に慈覚大師が一夜のうちに造ったものと伝えられています。旧暦の4月8日はこの薬師如来の祭りの日とされています。 道安寺さんが管理していますので、一言断って見せてもらってください。
春日大沢窯跡・大貝窯跡と共に春日大沢窯跡群の一つで奈良時代の須恵器窯跡、平安時代の瓦窯跡、竪穴住居跡等が見つかっています。製作された須恵器や瓦は古代の役所である多賀城政庁に運ばれ、使用されたようです。 硯沢窯跡
昭和60年三陸自動車道建設に伴って、発掘調査されています。遺跡は、それ以前には知られていなかったのですが、調査の結果、窯跡があることが分かり、調査が行われたものです。発掘調査の結果、須恵器(4世紀ころに、朝鮮半島から、渡来人によってもたらされた焼物の一種で、窯、ロクロを用い作られた土器です。窯を使い、高温で焼き上げられていますので、非常に硬く、ロクロでつくられますので、同じ形のものを大量につくることができます。こうした技術はそれまで、日本にはなく、技術革新といえるものだったと考えられています。参考までに、それまでの焼物は縄文式土器や弥生式土器の系統をひいた土師器とよばれる野焼きの焼物で、やわらかく、水がもったりするものでした。しかし、このような日本古来の焼物には、火に強く、煮たりする場合割れにくいという特徴があり、須恵器には水がもったりせず、大量生産が可能であるという特徴がありました。当時の人々はこのような特徴を活かして、土師器と須恵器の両方を使っていました。)を焼いた窯跡15基、瓦を焼いた窯跡4基、燃料にするために炭を焼いた窯跡5基の他、作業場の竪穴式住居跡7軒などが発見されました。須恵器の窯跡には、地下式登窯(地面をトンネル状に掘りぬいた窯)と半地下式登窯(地面を窯の形に掘り窪め、あとで、天井を粘土でおおう窯)の二種類がありました。大きさは、長さ7〜8m、幅約2mが平均ですが、中には長さ10mという大きなものもありました。須恵器の窯跡では、坏(茶わん、皿)、甕(貯蔵用)、蓋が主に焼かれていたようです。また、円面硯とよばれる当時の硯も発見されています。「硯沢」という地名と硯、非常に興味深いところです。瓦の窯跡は、半地下式登窯の形をしています。4基ともに、大きさは、長さ7.5m、幅0.8mで並ぶように見つかりました。4基の窯跡のまわりには、雨水が流れこまないようにするために、溝がつくってありました。出土した瓦には、軒丸瓦、平瓦、丸瓦の3種類が見つかりました。軒丸瓦の特徴は、文様が細弁蓮華文軒丸瓦とよばれるものでした。二回目の大改修(貞観11年(869)の陸奥国大地震によって、多賀城は大打撃をうけました。その修復のための改修)の時に葺かれた瓦の文様と今回出土した瓦の文様が一致するので、その修復のための瓦がここで焼かれていたことが分かりました。竪穴式住居跡7軒見つかり、須恵器窯跡に近接して発見されました。住居跡からは焼き物用と見られる粘土のかたまり、須恵器の失敗作品(窯跡出土のものと同じ)が見つかっており、住居跡は須恵器窯跡と同じ時期のもので、須恵器製作工人の工房跡であるとみられています。これらの発見された遺構の時代は、須恵器窯跡が奈良時代(8世紀前半ころ)、瓦窯跡は平安時代(9世紀後半ころ)で住居跡(工房跡)は須恵器窯跡と同じ時代、奈良時代のものと考えられています。
道安寺の裏山一帯に100〜200の横穴があるといわれています。調査の結果、39基の横穴が見つかっており、中からは副装品である須恵器・土師器等の土器類の他、勾玉・管玉等の装身具、直刀等が出土しています。 道安寺横穴古墳群
江戸時代(正徳元年1711年)に、道安寺四代目住職山素嶺和尚が夢のお告げを受けて裏山を掘ったところ、高さ約10cmの黄金の不動明王と古代の土器が発見されたことが知られるきっかけとなったと伝えられています。
 昭和40、41年にかけて発掘調査が行われ、39基の横穴古墳が確認されました。これは一ヵ所に集中して発見されたものではなく、道安寺の境内(裏山一帯)に20〜30基単位の古墳群が5〜6箇所あり、総数はゆうに100基を超える規模になるとみられています。
 調査の結果、土師器、須恵器とよばれる土器、直刀、刀子、勾玉、管玉等が多数出土しました。また、古墳時代のものではないのですが、菅谷不動の裏山地区から10cm大の扁平な河原石がたくさん見つかり、その中の8点に1cm四方の細字漢字で墨書きされた写経石とよばれるお経を石に写したものがあります。そのひとつには「弘安6年庚未9月6日、摩謌摩耶経下巻以下(省略しますが、お経が書かれていました)」と書いてありました。お経をこの場所に納めているわけですが、これはそもそもお墓として造った横穴を約600年を経て中世の時代には信仰の場所として再利用したのでしょう。弘安6年(1283)は今から約700年前ですが、この時期、菅谷地区を治めていたのは留守一族中の菅谷氏で、初代伊沢家景の弟伊沢家業の次男「五郎家冬」が菅谷氏初代とされています。留守氏一族は、この時期から陸奥国留守職という権威を持ちながら、一族の繁栄によって地域内で地固めをしたとみられています。
本町、春日には「瓦焼場」という地名が残されており、昔から瓦を焼いた場所として伝えられていました。平安時代の須恵器・瓦窯跡の他、近世の瓦も見つかっており、その中の一つには「太田一兵衛」という刻印のある瓦も含まれています。これと同じものは松島町瑞巌寺においても見つかっています。 大沢窯跡(春日大沢窯跡群)
春日大沢窯跡群は、多賀城政庁から直線距離で約5〜7qの位置にあり、大沢窯跡・硯沢窯跡・大貝窯跡・中倉窯跡等によって形成されており、仙台市小田原窯跡群と並び県内有数の窯跡群として知られています。本町春日には「瓦焼場」という地区があり、この地は昔から多賀城の瓦を焼いたという言い伝えが残っていることから、この地名の起源について、多賀城と結びつけて考えるのが通説となっています。しかし、「瓦焼場」という地名自体から考えても、さほど古いものとは考えられず、少なくとも近世における命名としか思われません。この地区からは、「太田市兵衛」という刻印のある瓦が見つかっており、これと同じものが、あまり離れていない瑞巌寺でも使用されていたことから、概ね江戸時代初期のものと思われます。瑞巌寺は慶長年間(江戸時代初期)の再興に係わるもので、当時、この寺は重要な建物であったことを考えれば、それに使用する瓦を焼いた結果、この地が「瓦焼場」という地名となったことが容易に連想されます。大沢窯跡は三陸自動車道建設工事等に伴う発掘調査によって古代の瓦窯跡12基、須恵器窯跡2基、炭窯跡2基、近世瓦捨て場等が確認されています。瓦窯跡の大きさは、保存状態が良好なもので全長約7〜8mで、失敗作品である割れた瓦が階段のように段々に敷き詰められていました。これは、焼台とよばれる施設で、製品である瓦を大量に置くことができ、焼く場合にも、窯は登窯で斜面となっていますので、瓦が滑り落ちてこないようにする施設です。調査報告書には記されてはいませんが、窯の構造は硯沢窯跡の瓦窯跡と同じ半地下式登窯です。時期については、出土した瓦の中に細弁蓮華文軒丸瓦・均整唐草文軒平瓦等があることから、8世紀末〜9世紀(平安時代)のものと見られています。窯跡の付近からは竪穴住居跡も1軒確認されており、瓦・須恵器製作工人の作業場と考えられます。また、近世瓦の捨て場が確認され、軒丸瓦、軒平瓦・面戸瓦・棟込瓦・鬼瓦等の多量の近世瓦が出土したことから付近には近世の窯跡等の存在も強く考えられます。
硯沢窯跡・大沢窯跡古代の須恵器・瓦窯跡が多数見つかっています。その他、中世の製鉄炉跡も確認されています。中世の製鉄炉跡は県内において確認されている例は少なく、大変重要な発見になりました。 大貝窯跡(春日大沢窯跡群)
(春日大沢窯跡群)平成12〜13年に発掘調査が行われました。奈良〜平安時代の須恵器・瓦の生産地として知られており、大沢窯跡・硯沢窯跡とともに古代の窯跡群の一角を形成しています。調査の結果、縄文時代の竪穴住居跡3軒、古代の須恵器・瓦窯跡18基、竪穴住居跡9軒、炭窯跡10基、中世の製鉄炉跡7基、炭窯跡12基等多数の生産に係わる遺構を検出しました。古代瓦窯跡については、地面を半分掘り窪め、天井を粘土で構築する半地下式の登窯でした。大沢窯跡と同じように底面には瓦(丸瓦・平瓦)が階段状に並べられ、焼台が形成されていました。須恵器窯跡についても同様に丸瓦や須恵器片によって焼台が形成されていました。須恵器・瓦窯跡は3〜5基を1つの単位として大きく4箇所に点在していました。また、その周囲からは作業場と考えられる竪穴式住居跡も確認しています。住居跡内のかまどには構築材として瓦が用いられており、瓦窯跡と非常に強い関係をもった住居跡といえます。多賀城政庁跡に係わる窯跡は大沢窯跡、硯沢窯跡においても多数確認されていましたが、大貝窯跡の調査によって新たに窯跡等が確認されたことから春日・赤沼地区が多賀城政庁に非常に係わりをもち、重要な地域であったことを改めて確認することができたといえます。また、炭窯跡から出土した軒丸瓦と多賀城政庁跡において出土した瓦に同じ笵傷があることから、大貝窯跡において製作された瓦が多賀城政庁に運ばれて使用されたことも分かっています。調査が行われるまで大貝窯跡は古代の生産遺跡としてのみ知られていましたが、新たに中世の製鉄炉跡7基、鍛冶炉跡17基、炭窯跡12基等製鉄に係わる遺構が多数検出されました。製鉄炉の構造は斜面を切り出すことによって平場を形成し、炉を構築する「箱型製鉄炉」でした。製鉄炉には主に「竪型製鉄炉」と「箱型製鉄炉」の二つがありますが、これまで県内においては「竪型製鉄炉」のみが確認されており、大貝窯跡において確認された製鉄炉跡は県内初の確認となりました。そのことは県内の製鉄の歴史を考える上で非常に重要な発見となりました。また、赤沼の中世の支配体制を考える上でも大きな成果といえます。製鉄炉跡は大きく4箇所において確認されていますが、いずれにおいても製鉄炉跡の斜面下からは多量の鉄滓が出土しています。多いところで30〜40tの重量になりました。また、製鉄炉跡の周囲からは12基の中世の炭窯跡が確認されています。製鉄を行う際には必ず多量の木炭が必要となりますので製鉄炉跡とは強い関連があるものと思われます。炭窯跡の時代についてですが、一部の窯の煙出施設において板碑が転用されていたことから、少なくとも板碑が普及する13世紀末以降の炭窯跡であるということが分かっています。そのことから、製鉄炉跡も大きく13世紀末以降であると考えられます。
縄文時代前期から弥生時代、奈良時代にかけての遺跡です。洞窟の中からはそれぞれの時代の土器等が見つかっています。また、付近からは縄文時代の貝塚も確認されています。 浜田洞窟遺跡
仙石線陸前浜田駅から国道45号線を松島に向かって進み、旧国道に入り「田里津庵」地内の笠島神社前の歩道を下ったところにあります。洞窟は、海水の浸食によってできた天然の洞窟で、東北大学の発掘調査から縄文時代晩期末〜奈良時代にかけての遺跡であることが分かりました。洞窟は南向きになっており、生活環境はよかったのでしょう。また、弥生時代のころは生活の場だけでなく、墓地としても使用されていたことも分かりました。 また、平成元年には、利府町教育委員会が確認調査を実施しており、洞窟前面の湿地帯(現在は整地されています。)には、縄文時代晩期の貝塚が残っていることが確かめられています。その他、縄文前期のころの土器も出土しておりますので、この遺跡の時代は縄文時代前期(約6,000年前)〜縄文晩期(約2,500年前)、弥生時代(約2,300年前)、古代にかけての遺跡であることが分かりました。
現在、「勿来神社」をひっそりと残すのみですが、古代、この場所に関所があったといわれています。現在でも周囲には「名古曽川」・「惣の関」といった関所に関連した地名が残されています。また、この地において源義家は「吹く風を勿来の関と思えどもみちもせにちる山桜かな」という歌を詠んだといわれています。 勿来の関跡
惣の関という地名は、はじめは左右の関で、道の分岐点をあらわし、そこに関所があったと伝えられています。勿来とは「くるなかれ」という意味であり、北方の蝦夷が攻めてこないようにと願ったのでしょうか。
 中世にも留守氏と大崎氏の戦いがあり、大崎氏が大郷町板谷から惣の関に攻めてくるという古文書がありますので(留守家旧記)、ここのルートが交通の要衝であったことが分かります。その他、この古文書には惣の関周辺の地名が認められます。
 「府中山、板谷(大郷町板谷地区)をとおり、大木をきりふさぐといえども事ともせず、そうの関へ御出張候間、留守殿おそれたてまつり陣をひきたまう。」(多賀城国府の山、板谷をとおって大きな木でさくをつくっていたのだが、問題とせず、そうの関まで攻めてきた。留守氏(11代家明)はおどろいて陣地をひいてしまった。)
 「大木を切って防いでいたのだが」ということは関を意味していると思われるのですが、どこなのか不明です。もしかすると、言い伝えどおりにこの近辺なのかもしれません。現在は小さなほこらがあり、山神の碑、勿来神社の碑があるだけとなっています。参考までに、陸奥国の勿来の関は、福島県いわき市南方の勿来の関が通説となっています。
 江戸時代の古文書によれば、当時この場所には「山の神」の石碑があるのみであったという記録があり、昔からの言い伝えによって、近くに住んでいた伝右衛門という人が願主になって、お祭りをはじめたということです。しかし、前にも述べたとおり、それ以前の古文書の地名にも、「そうの関」「名古曽川」がありますので江戸時代の言い伝えも間違っているとはいえないのではないでしょうか。
自然地形を利用した山城です。留守氏の家来であった村岡氏が築いたといわれています。 利府城跡
利府小学校裏の山にあたり、標高88mの自然地形を利用した山城です。城といっても大阪城や姫路城のように天守閣といったものはなく、山を削り、平場をつくり、そこに居宅を設けた守り重視の館跡です。大阪城等は平野部に築く、いわゆる平城で、城主を守り、威厳をふるうために天守閣といった建物を設けなければなりませんでしたが、山城にはあまり必要ではなかったのでしょう。自然地形がその役割をはたしていたのです。
 この城が築かれた時代については、まだよく分かっていませんが、留守氏の家来であった村岡氏が築いたと考えられています。
 その後、戦国の時代をむかえ留守氏内部に家督相続問題が起き、永禄12年(1569)留守氏の血筋を守ろうとする立場にたった村岡氏は、伊達六郎(伊達晴宗の三男:政景・政宗の叔父)を養子としてむかえ、伊達氏の勢力下にあって留守家安泰を図るべきとする伊達派と戦いになりました。この時、村岡氏はこの城にたてこもり、戦いましたが、敗れ滅亡したといわれています。
 永禄13年(1570)に、政景は岩切城からこの城に移り、地名を村岡から利府とあらためました。また、同時に城名も利府城となりました。政景は、天正18年(1590)に、伊達政宗から黒川郡大谷城に隠退を命ぜられるまでの約20年間、この城を本拠地としました。その間、政宗の右腕となって大活躍したことは有名です。
石 碑
加瀬沼公園の近くに代々守らています。「伊沢左近将監藤原家景」は、建久元年(1190) 伊沢家景の墓
利府町にゆかりの深い留守氏、その初代「伊沢左近将監藤原家景」は、鎌倉時代の1190年に源頼朝によって「陸奥国留守職」に任命され、国府多賀城に長官として赴任しました。そのころ、この地は頼朝との戦いで、平泉藤原氏が滅亡し、非常に荒廃が激しかったのです。それを頼朝に代わり、たてなおすことが主任務でした。
 その後、留守氏というのは、将軍に代わって陸奥国多賀城の留守番をするという役目となり、その職名がかわって留守氏と代々よばれるようになったとされています。
 墓碑は、水間賢氏宅の西隅にあり、1819年加瀬の佐々木春泰氏が現在地にこれを発見したといわれています。当時、墓碑は土中になかば没し、農家のわらたたき台となっていたといいます。この年、家景の600年忌にあたり、水沢領主「留守村福」がたてなおしました。左右一対の石灯籠を配し、高さ1.8m、幅0.8mで中央に「元祖加灘寺殿故従四位左近将監瑞山雲公大居士」、右に「承久三年辛己」、左に「十一月十三日」とあります。
鎌倉時代の板碑です。梵時「ア」の他に延慶3年(1310)2月27日と刻まれています。「ア」とは大日如来を表しています。「延慶の碑」には「力試し伝説」が残されています。 延慶の碑
利府街道沿いの神谷沢にあります。高さ、幅1.5mの大きさで、「ア」大日如来です。「延慶三年二月二七日敬白」と刻まれています。また、この板碑には力試しの伝説があります。昔、村中に平田五郎という人がいました。(平田五郎は会津の平田土佐守実範の弟、周防の子で、政宗公に仕え二百石をいただきました。五郎は利府本郷(利府、館、大町のあたり)に住んでいました。身長約2m、豪勇で知られ、有事の際に一回に二、三升のご飯を食べ、後は何日でも食べなくてもだいじょうぶという腹芸がありました。)ある日仕事から帰る途中、神谷沢の浜街にかかっている神谷川の土橋をとおると、秋のおわりごろだったので、川が干あがり、水たまりの海老、ざっこ(小魚)をキツネの群れが夢中でむさぼり食っていて、五郎の姿に気が付かないでいました。そこで、おもしろ半分に大声をあげたところ、キツネはびっくりしてあわてて逃げていきました。そのあと、キツネがいたあたりに何か光るものが落ちていました。みごとな玉でした。
 五郎はそれを持ち帰ったところ夜更けに玄関の戸をたたく者がいます。出てみると、若い女性がしょんぼりと立っていて、事情を聞くと「わたしはあの時のキツネで逃げる途中に大切な玉を落としてしまいました。あの玉がなければ仲間にもどれなくて困っています。どうか、あの玉を返してほしいのです。返していただければ、御恩返しに怪力を身につけてさしあげます。」と泣きながら嘆願するので、もぞこくなって返してあげました。あくる日、神谷沢へ行って、試しに延慶の碑を持ち上げると、その軽いこと、さながらワラ束を持っているようでした。キツネのいうことはうそではなかったのでした。(その後、日本は豊臣秀吉によって全国統一がなされていきますが、時の関白秀次は反逆の罪にとわれ、高野山で切腹に処せられます。この反逆に政宗公が加担したという容疑で、太閤秀吉からすぐに上京しろと命令されます。世間は政宗公の切腹という噂で持ちきりでした。)時は文禄4年(1595)7月14日、伏見城大広間。この日、片倉景綱が政宗公の太刀を掲げ、豪勇平田五郎は草履取りとして参列しました。太閤秀吉が政宗の容疑を審議中、地震のような震動を感じました。何事かと思い数人の警備のものが玄関に出てみると、柱と土台石の間に草履がはさんでありました。そこへ、ぬうーと巨漢の五郎が現われて、「閑所(トイレ)に行く間、はさんでおきました。」どうれといって片手で柱を持ち上げ、片手で草履を取り出したものですから一同、舌をまきました。太閤秀吉の耳にもはいって「政宗佳士を得たり」と誉め、容疑も晴れたのでした。いまでも神谷沢の東浜街道には平田橋が、また原ノ町小学校となりの平田神社は五郎が慶長8年(1603)につくった稲荷神社です。
江戸時代の「水神の碑」が利府周辺には多くあります。写真は利府森郷にある碑です。その斜面上方には「惣の関ダム」が位置しています。昔から水源地として守られていたのでしょうか 水神の碑
江戸時代の水神の碑がこの周辺には多くあります。水の神様、水源地を表すものでしょうか。昔
から良い水がわいてくるところだったためでしょうか。
 すぐ北側には利府町の水源があり、現在も使われていることはみなさんも知ってのとおりです。
神社・仏閣

伊豆佐比賣神社
『延喜式』(平安時代の古文書)に記載されている由緒ある神社です。山形県田川郡由豆佐賣神社と同じ、温泉が湧き出ることをお祀りする神様で、米づくり地帯の水の灌漑を司り、物を作り出す源と捉え、これを女性(女神)の神様としたものと思われます。
昭和初期に、弘仁11(820)年に編集された弘仁格式が発見されました。その中に「祭塩釜神社料一万束」と記録があり、陸奥国で唯一の総資鎮守(神社にはランクがあるのですが、塩釜神社は特別な神社としてランクの一番上位にありました)であったことが分かりました。塩釜神社は、さらに左宮、右宮に分かれ、左宮には志波彦神社(塩釜神社内、岩切字若宮)、鼻節神社(七ヶ浜花渕)が祀られ、また、右宮には多賀神社(多賀城市市川)、伊豆佐比賣神社祀られていたことがわかりました。万冶3(1660)年の火災や、明治維新の際に建物が破壊されましたが、その都度再建され、現存するのは大正9(1920)年に建てられたものです。

春日神社
春日神社は藤原氏の祖神が祭られています。承和10年(843)に陸奥出羽国按察使藤原富士麿が多賀城国府に赴任した時、大和国にあった本社から分霊して、塩釜の上野原につくりました。その後、小野田改め今の春日に移されたということです。
 平安時代の奥州藤原氏、鎌倉時代の伊沢家景、戦国時代の留守政景といずれも藤原氏と関係が深く、厚くお祭りしたといわれています。
 明治9年(1876)の山火事で社殿を焼失しました。現在の建物は明治12年(1879)に再興されたものです。お祭りされている神様は五穀豊穣を祈る武甕槌神・経津主神・天児屋根命・比めの大神です。
 また、付属として祭られている北宮神社は、古代において国府多賀城の区域を示すものとする説があります。つまり、当時の国府多賀城の区域の東端は、七ヶ浜町東宮、南端は多賀城市南宮、そして、北の端は北宮神社とする考えです。残念ですが、西宮は分かっていません。
菅谷不動尊
平安時代の末に藤原景昌が凱旋に際して、蝦夷の亡霊を慰めるために紀州高野山から不動明王を分け、この場所にお祭りしたのが始まりといわれています。拝殿(お堂)には、高さ約2m、背中に炎を背負い、右手に剣を持った不動明王が安置されています。
 また、お堂の裏に小さな滝があり、滝の水がたまった小さな池は不動の池といわれて眼を病む人がこの池の水を汲んで眼を洗うと治るという言い伝えがあります。
染殿神社
染殿神社はいつ、誰が造ったかはっきりと分かっていませんが、江戸時代の古文書には「蓋草神社」として記録が残されています。「蓋草」とは稲科の植物のことで、ススキに似ており、染料として昔から使われていました。赤沼周辺からは品質の良い蓋草がたくさん採れたそうです。このことは、鎌倉〜南北朝時代の短歌などにも詠まれています。御祭神は、染殿姫命・「建築」を司る大戸辺命・大苫辺命、「飲料水」を司る垂水之姫命です。

染殿神社 例大祭はこちらから
森郷の太子堂
現在、太子堂のある場所にかつて「竜蔵寺」という寺がありました。『安永風土記』によれば、竜蔵寺は、元禄3(1690)年に宮城郡芋沢村(現在の仙台市)にある河北山臨済院の鳳山和尚が建てたといわれています。竜蔵寺の本尊として約3尺(90cm)の木彫りの「聖徳太子」像が祀られていましたが、明治時代になって、住職が寺を離れたために寺が荒廃しました。その後、森郷の人々によって「太子堂」が創建され、本尊も移されたとのことです。なお、現在の太子堂は、昭和14(1939)年に建て替えられたものです。
天祥寺
伊沢家景が承元2年(1208)に、正観音像と仏舎利を安置するお堂をつくりました。このお堂は、天台宗太白山加灘寺(後に加瀬寺と改称)とよばれました。その後、天祥寺に移されたとのことです。正観音像は、高さ一尺三寸(約40cm)の一本づくりで、像の唇は朱塗りです。湛慶の作といわれています。また、天祥寺には伊沢家景の位牌も安置されています。
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